Nashiki’s Note <6>
「詠み人知らず」
作者のことはわからない。創作された状況もわからない。
予備知識は与えられない。人伝に作品だけが存在する。
「名もなき民芸」
そこらの「名人」や「偉い人」がつくったもの、つまり創作力の社会的評価を基盤にして生活している人の作品ではない。ともすればつたない環境や方法で、それでも美と直感に直接向き合ってこそなされる無欲の創造、その作品たち。
請われるより前に、あるいは請われることなく、なされる表現がある。作品は表現者の必然的な内的要請から創造される。だからその作品が社会的価値を持つのかどうかは、全く二次的な話だ。無目的の根源的創造と、それら作品との共振という最も基本的な、あるいは最終的な「表現」と「鑑賞」の関係、それは、作品との直対面だ。
世界は、ありあまる「美」に満ちている。
そして自然と、その自然の一部である人の呼応、その振動との共振という営みが確かなものであると思えるのは、「美」がこの世界の基底に横たわっていることを直感させるからだ。少なくともそう信じるこころにとって、作品の「詠み人」を知っているか、そこに「名」はあるか、ということは問題にもならない。世界を圧倒的な深紅に染めて沈む夕日の美しさに、レヴューなど必要ないのだ。
作品との直対面。何であれ、様々に個別に孤立しているもの同士の出会いはなかなか困難なのかもしれない。でも悲観することなんかない。表現と鑑賞の出会い、これこそ命のご縁というものだ。
梨木良成 (音楽制作顧問)