<1>

考えてみよう。

音楽は音の作品だ。そして音楽作者が本来つくりたかったのは「音」でできた作品なんだと。画家がキャンバスに絵を描いて作品を固定化させたのと同じように、音楽作者は根源的に、自分の心の奥から沸き上がるあふれるような響きを「音」に描きたかったんだと。

しかし音楽の作者は、画家が自分の作品を自分の手で描き上げるようには最終的な「音」まで描き上げることができなかった。「音」そのものは演奏家に委ねたり、録音技師に委ねたりせざるを得なかった。しかもその「音」が作品として定着し固定化されるようになったのは、音楽の長い歴史の中でごく最近のことだ。本来二義的な演奏や演奏者、指揮者、歌手、録音技術、録音媒体に人々の意識が向くのは、ひとえにこの音の固定化に音楽作者が全的に関与することができなかったからに他ならない。

音楽は絵画や彫刻などに比べて、なんと約束事に縛られていることか。

それは、二義的な関与を受け入れるための法則と楽器の整備が必要だったからだ。
どの楽器で、どの高さでどれくらいの長さの音かを指示しなければ、それも普遍性のある約束事でなければ、音として再生できない。譜面という指示書がなければ音楽は「音」になることができなかったのだ。故に再生にはそれ相当の幅が必然的に生じて、作者の思いもよらない演奏が生まれたり、解釈の違いが生まれたりして、結果、音楽が作者独自の「音の作品」であることから遠ざかってしまった。

一方、画家が作品を描く手順を想像してみよう。

原理的に、絵画に約束事はいらない。作者は真っ白なキャンバスを目の前にして、心の奥から沸き上がる自分だけが知っている絵画イメージをただただ追い求めて、思うがままに絵の具を混ぜ合わせて、色という形を無心に描く。
画家は己が描いた作品に全的に関与する。作品の何から何まですべてが己の創造であることを宣言し、その存在を引き受ける。

画家や彫刻家、さらに詩人や小説家は「作品そのもの」を創造する。
音楽作者がこれまで創作してきたのは、作品の構想やデザインにとどまって、結局「音」という作品そのものの創造ではなかった。

<2>

画家は真っ白なキャンバスを目の前にして、まずどのジャンルでいこうか…って考えるんだろうか。
何色と何色を使うとこういうふうになるって定石があって、それをまず決めるんだろうか。
特定の形の組み合わせが一定の絵画イメージを生み出すことを知っていて、その取捨選択が大切だと思っているんだろうか。

音楽が「音」作品であるなら、その「音」は自由自在であるべきだ。何らかの約束事に規制され縛られていては、全く持ってつまらない。娯楽や芸能にはちょうどいいあんばいなのかもしれないが、それでは創造作品とは呼べないし、個の表現とは言えない。何より面白くない。

 

<3>

もう一度考えてみよう。
画家や彫刻家、さらに詩人や小説家は「作品そのもの」を創造する<手順>を持っている。
音楽作者は、音楽の長い歴史を超えてやっとこさ<その手順>を手に入れつつある。
画家がキャンバスに作品を創造するのと同じように、音楽作者はまるで絵の具のように音を選び加工し混ぜ合わせ、己のイメージに忠実な「音」に仕上げる手順を手にいれつつある。

もう約束事はいらない。必要なのは自由に、奔放に、「美」を求める心だ。

森堂自/梨木良成 (音楽制作顧問)