Nashiki’s Note <4>
いつの時代においても、我々は最新のテクノロジーを持ち、その恩恵に浴して来た。表現においても、テクノロジーは絶えず新たなツールを提供し、そこに新たなメディアが誕生し、人の霊感と創造を鼓舞した。新しい筆や紙、絵の具、様々な楽器、カメラ、録音機器、デジタル楽器、音響・映像機器、音声・画像編集ソフトなどによって、表現はその都度新たなかたちを獲得してきた。そして、新たなかたちに直面するたびに、そのかたちが斬新なものであればある程、時々の表現者はその「表現」ということの本質に対峙してきたのだ。
1000年以上前の恋の歌、数百年前に詠まれた句、いつとは知れぬ頃よりの民謡、名も知れぬ民芸の数々、異邦の絵画、彫刻、音楽、………
はるか時空を超えて、それら作品が今なお私たちの心を打つのは、それら作品が、真摯に生き、悩み葛藤し、歓喜し、悲哀し、尚それを表現しようとした「こころ」があったことを、私たちが真摯に受け止めるからだ。叫びと静寂の間合いに、激しく、美しく、激震するその「命」に私たちの「こころ」が呼応するからだ。
仮に、もし統計やデータベースから導かれた、望ましい人格、生きるべき規範、好ましい性向、あるべき感動などというものがあったとしても、そんなものはせいぜい単なる参考にしかならない。あるいは、「最新」のテクノロジーによって効率良く計算され生成された「作品」のようなものがあったとしても、せいぜいが面白い娯楽でしかない。恋愛経験のない人が書いた恋愛小説、悲哀経験のない人の苦労話に「こころ」は反応できないのだ。
事前にどれほどの情報が得られたとしても、個々人は、初見の独自の体験として各々自らの時間と空間を生きる。刻々と新たな時間を精神と肉体が経験し続け、それぞれの「こころ」は固有の「命」を体現する。そして、「表現」は、個々の、初見の、独自の「命」を体現するという次元にのみ生まれてくる。「作品」は、統計・計算ではなく、抜き差しならない固有のこころの「経験」で構築されているのだ。
梨木良成 (音楽制作顧問)