<Nashiki's Note 002>

孤立して100%自給自足しない限り、人は基本的に社会に貢献することが要求される。何らかの形で他の人の役に立つことが求められる。生産に従事したり、サービスに関わったり、教育や福祉に携わったり、研究したり、娯楽を提供したり……仕事をするということはそういうことだ。言い換えれば人の役に立たなければ誰もお金を払ってくれない。いかに自由に生きたいと願っても多かれ少なかれ、人はこの社会の枠組みの中を生きざるを得ない。

画家や音楽家など「表現者」も例外ではない。

創造とは普遍性が「表現者」の独自の新たなかたちを得て現出することだ。個々の人間が持つ唯一無二の立脚点から生まれる独自性と、その存在を支える基層の普遍性が創造的に織り合わされて作品は産み出される。そこに作品は自立する。しかし「表現者」が、社会のためではなくただただ自分の表現のためだけに創作して生きて行こうとしたら、それが社会的ポーズでないのなら、この社会に存在することを無視/拒否しているのと変わらない。表現の深度が深まれば深まるほど、創造的になればなるほど、その表現の独自性は高まり、社会の共通言語から離れていかざるを得ない。それは社会の既成の要求からはみ出し、結果、対価に結びつかない。よほどの運才・弁舌に恵まれて既成社会を説得できる者以外は、「表現者」が真摯であればあるほど、正直であればあるほど、自由であればあるほど、その生存は苦難となり、苦悩は大きくなる。

まず「表現者」はこのなんとも因果な、しかし必然的な負託を背負うことが求められる。
野生の植物のように、大地に根をおろして太陽と風の恵みを受けて屹立し、黙々と生き続けるなどというのは、人の生存形態選択肢にはない。だから「表現者」は苦悩する。自由な魂は原理的に苦悩する。

梨木良成 (音楽制作顧問)